一年で一番長い日 65、66「ブルーベリーのマフィンか!」俺はしげしげと眺め、甘い匂いのする菓子にかぶりついた。 「美味い。ジャムじゃないブルーベリーが入ってる」 俺が喜んでマフィンをもぐもぐしているのを、葵は軽く驚いたように見ていた。 「そんなに好きだったの?」 「いや、好きっていうか・・・」 改めて訊ねられ、俺はちょっと恥ずかしくなった。そりゃそうだよな。こんなオヤジが嬉々として菓子にかぶりついてるってのも妙な姿だよな。 「この間読んだ本に、ブルーベリーマフィンが出てきたんだよ。盗むことが不可能なはずの秘伝のレシピが盗まれた。でもどうやって? っていう話でな。カーの密室物に挑戦した意欲作だけど、俺はどっちかというとケメルマンかチェスタートンの見えない犯罪者っていうか・・・」 黒後家蜘蛛の会(5) 言い訳のように続ける俺を葵はさえぎった。 「あなた、子供の頃は<トラのバターのパンケーキ>が食べたかったでしょう?」 「・・・なんで分かったんだ?」 笑いを堪えるような表情に俺はムッとしてみせる。 「クリスティも読んだ?」 「ああ」 「じゃあ、クリスマスプディングとか、キドニーパイを食べてみたいと思ったでしょう?」 「・・・」 俺は葵の言いたいことがなんとなく分かってきた。 「単純・・・!」 やっぱり。葵は笑い転げている。基本的に笑い上戸だな、こいつ。もう慰めてなんてやるもんか。 「俺はフィッシュ&チップスを食べてみたくなったよ。ラヴゼイのダイヤモンド警視シリーズを読んだ時」 「君だって単純じゃないか」 「うん。だから分かったんだ、あなたの気持ち」 俺のむすっとした表情にもめげず、まだくすくす笑ってる。ふんっ! 「それにしても、ラヴゼイか。『偽のデュー警部』は読んだかい?」 「もちろん。凄いね、あれは。二転三転どころじゃないよね」 偽のデュー警部 「ああ。ミステリの傑作のひとつだと思う」 「時代の雰囲気も良かったよね。クロフツの『樽』を思い出しちゃったよ」 「うーむ、こんなところで海外ミステリ好きの同士に出会うとは」 「あなたってミステリ好きの割りに、なぜ何でも屋? どうして探偵とか興信所とかじゃないの?」 「う、それは」 俺は呻いた。 「きみは俺にそういうのが似合うと思うか?」 たっぷり三十秒は考えて、葵は俺の予想通りの答を返した。 「思わない。納得」 うんうん頷いている。 確かにその通りなんだけど、自覚だってしてるんだけど、そんなに簡単に納得しないで欲しかった。心で泣きながらそれでも美味いマフィンの二個目を頬張っていると、前触れもなく部屋のドアが開いた。カードキーをその白い手に持っている。 「あ、お帰り、芙蓉」 葵の声をぼんやり聞きながら、俺は入ってきた美女に見蕩れた。 ◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇ 「ただいま。あら、夏樹はお昼寝?」 声は葵と同じ。だが、<女の声>に聞こえるのはどうしてだろう。話し方とトーンか。 「げほっ」 芙蓉に気を取られていた俺は、マフィンを喉に詰まらせてしまった。眠る子供を気にしつつ、必死にむせる。く、苦しい。 「大丈夫?」 芙蓉は急いで俺の背中をさすってくれた。翻ったスカートの裾が、妙に印象に残る。 「だ、だいじょぶ・・・」 ひとしきりむせて、息苦しさに俺は目を白黒させた。はー、死ぬかと思った。 お口に物が入っている時は、ちゃんと飲み込むまでしっかりもぐもぐしなさいって、ののかに言い聞かせたのは俺なのに。 パパ、お馬鹿さんねぇ。・・・ののかのおしゃまな声が聞こえてきそうだ。 「ほら、これ飲んで」 芙蓉はダージリンの入ったカップを渡してくれる。温くなったお茶がちょうど良く喉をすべっていく。 俺は何度か咳払いして喉の違和感を追い払おうとした。しばらくしてやっと普通に話せるようになったので、俺は口を開いた。 「ありがとう。芙蓉くん、だよね?」 分かっていてもつい確認してしまうのは、彼の<彼女っぷり>が完璧なせいだろう。 「そうよ。今度は覚えてくれているでしょう?」 <サンフィッシュ>でのことを言っているのだろう。悪戯っぽい目をしている。そういうところは葵とそっくりだ。 夏樹くんをベッドルームに寝かせてきたらしい葵が言う。 「芙蓉も紅茶飲む? アイスにしようか」 「いいわね。お願いするわ」 芙蓉の返事に、葵はにこりと微笑ってミニバーに立った。 「外は暑かったわ」 そういう芙蓉の出で立ちは、涼しげな麻のワンピース。襟元にはシフォンのようなスカーフをゆるく巻きつけている。 上品な着こなしのせいか、暑そうには見えない。黒い髪はアップにして髪留めで留めている。胸が自然に盛り上がっているのを見てドギマギしてしまうのは何故だろう。 俺の視線の先に気づいたのか、芙蓉は嫣然と微笑んでみせた。 「気になる? 何でふくらませているのか」 「え、いや、その、だな・・・」 俺はつい目を泳がせてしまった。 「言っておくけど、手術なんかしてないわよ?」 「そ、そうなのか? どうなってるのか知らないけど、自然な仕上がりだね」 「触ってみる?」 「さ、さわ、いや、触らなくていいから!」 焦る俺を、芙蓉は楽しそうに見ている。っとに、こいつらは確かに兄弟だよ。 次のページ 前のページ ジャンル別一覧
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